8日目 2000'.12.08. (金) 晴
チャナッカレ(ホテル)〜フェリー〜エディルネ市内観光〜イスタンブール(アヤ・ソフィア観光)〜ホテル
            専用バス
  宿泊:イスタンブール  Hotel:GRAND HOTEL TARABYA(グランド ホテル タラブヤ)

■モーニングコール5:30  朝食6:00  荷物出し6:00  出発7:00



フェリー
 アジア側のチャナッカレからフェリーでヨロッパ側の港(名前は失念)へ渡りバスでエディルネへ向かう。

  Edirne(エディルネ)
 エディルネはかつてオスマン帝国の首都であった。 
現在はトルコ共和国の一番西端にありギリシャと国境を接していてブルガリアにも近く、
ヨーロッパからの鉄道はエディルネが最初のトルコの駅となっている。 
町の歴史はBC7世紀で、トラキア人が建設したオドリシアという町が始まり、
その直後ギリシャ人がオレシタという町を隣に作った。
 ローマ帝国のアドリアヌス帝は125年この2つの町を合併して、アドリアノープルと名付けた。
 330年コンスタンチヌス帝がローマ帝国の首都をローマからコンスタンチノープルに移すと、
首都に近いアドリアノープルは急に発展し中心都市になる
。 1361年アドリアノープルはオスマン軍の侵略を受けて、その領地となる。
 ムラト1世はオスマン帝国の首都をブルサから此処に移して、エディルネと命名する。
 首都がコンスタンチノープルに移ってからもエディルネは、オスマン帝国のヨーロッパ進出の拠点であり
、重要な都市であった。 しかしオスマン帝国が衰退すると共に、19世紀にはヨーロッパ諸国の侵略を
受け、一時は諸外国に支配された。 そして第一次世界大戦後に再びトルコ領になった。


  セリミエ・ジャミィ(SelimiyeCamii)★

 エディルネで最も有名なのがセリミエ・ジャミィである。
このモスクはスレイマン大帝の息子でスルタンの位を継いだセリム2世の為にミマール・スィナンが1569年から75年にかけて建設した。
 彼はスレイマン大帝によって1539年に宮廷建築家に任命され、大帝亡き後もセリム2世、ムラト3世のスルタンに仕えた。  
アヤソフィアを越える大ドームを造る事に専念し、31.5mという大ドームを完成させた。 
その大ドームを8本の柱が支え、5つの半ドームと8つの小塔が囲み、周囲に4本の高さ70mのミナレットが聳える。
 ミナレットの内部にある3つの螺旋階段は夫々別のバルコニーに行ける様になっている。
写真上:セリミエ・ジャミィ正面



写真上:大ドーム天井の紋様

 写真下左から3枚:セリミエ・ジャミィ:ジャミィの内部、絨毯はお祈りの為に一人ずつの広さに紋様で区切られております。

 写真下下:モスクの外観です。


セリミエ・ジャミィ

 イスタンブール
 エディルネから専用バスでイスタンブールへ到着した時は既に遅くアヤソフィア博物館へ入ったのは閉館前に近い時刻だった

  Ayasofya(アヤソフィア)博物館
 コンスタンチノープルの面影を残すのが、このかつてはギリシャ正教の大聖堂だったアヤソフィアである。 
最初の聖堂は360年コンスタンチヌ大帝によって建設され、5世紀初めに火災で焼けた為、
415年に再建されたが又暴動で全焼、534年に現在のアヤソフィアが建設された。 
その後も地震により被害を受けるがその都度修復される。
1453年にメフメット2世がコンスタンチノープルを征服すると、ここをイスラム教のモスクにかえる、
その時ミナレット2基を造り、16世紀のもう2基が加えられて4基となる。
 1923年にトルコ共和国が出来るとアヤソフィアの修復工事により、今迄モザイクを覆っていた漆喰を取り除き、
モスクの役目を終えて、博物館となった。 8世紀に聖画像の破壊運動により、ここに残されたものは9〜10世紀のものですが、
モスクに変えられた時に破壊されずに、漆喰で塗り込められた為に、ビザンチン時代に描かれた貴重なモザイク画が
、20世紀になって発見されて、修復され現在に至って残されている 

 

アヤソフィア入館前と退館後の写真(退館時月が懸かっています)

  

  



写真上6枚:アヤソフィアの内部を写したものです。

 写真上:身廊に残っている聖母子像
    下左:ヨアンネス2世と皇后イレーネがマリアとイエスに捧げ物をする画
    下右:ギャラリーの南壁に描かれた「ディーシス」の画

 


  アヤソフィアに伝わる伝説
 幸せをもたらす穴:大理石の柱の小さな穴(現在は銅板を張っている)に親指を入れ、
一気に360度ぐるっと回す事が出来ると幸せがやって来るといわれている。 
事の始まりはユスティアヌス帝の頭痛でどんな薬も効果がなかったのに、この柱に頭を押し付けると痛みが和らいだ、
これが広まり、大聖堂を訪れる信者達は皆、この柱に頭を押し付けてご利益を願った。 
長い間に柱がへこんでしまったので、保護の為に銅板がつけられた。 しかし信者達はこの銅板を穿ち
、柱に迄穴を開けてしまった。 今度はその柱に指を入れると軽く湿る事が発見され、
何時のまにか”子宝が授かる”いわれる様になった。 この湿り気は丁度柱の下に貯水槽があるので、
其処から上がってくる湿気であった。 ヨスティニアス帝も信者達も、この湿った柱が心地良かったのだろう。
 子宝伝説が何時の間にか幸せをもたらす穴に変わったのでしょう。 実際にやってみた所
、穴が少し高い位置にあるのと、若しも低くてもアクロバットが出来る様な体の柔らかな人でないと、一気に360度回すことは困難です。

 

  シルケシ駅(Sirkeci
 シルケシ駅は1888年、オリエント急行の終着駅として建てられた。
オリエント急行はエキゾチックな東洋を夢見る乗客達を乗せて1889年、パリからイスタンブールに向けて運行を開始した。
豪華でエレガントなオリエント急行は、様々な小説や映画の舞台となり、イスタンブールで撮影された
、スパイ映画「007ロシアより愛を込めて」はこのシルケシ駅から発車寸前のオリエント急行に飛び乗るシーンがある
。 今日のシルケシ駅は人影もまばらで閑散としている。 航空機が発達する迄はシルケシ駅は西ヨーロッパへの玄関口でした。
 そんな駅も今はアタチュルク国際空港に主役の座を奪われて従来の賑わいはない。 古き良き時代の面影を残す、旅情を誘う駅となってしまった。





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