2日目 2000'.12.02.(土) 晴 |
香港空港〜パリ・ド・ゴール空港〜イスタンブール空港〜イスタンブール市内(グランド・バザール、夜のシルケシ駅)観光 23:55(CX261便)〜6:30前後 9:55〜15:30前後(空港で両替16:05) |
〜ハイダルパシャ駅 〜寝台特急アンカラ・エキスプレス(1等寝台) |
ド・ゴール空港 方のブルー・モスクのシルエット ヌールオマニエル・ジャミイ
◆Istanbul(イスタンブール)の歴史◆
イスタンブールは、ローマ、ビサンツ帝国にオスマン朝、合わせて122人の最高権力者が手にした町。その間ざっと1600年間。
330年ローマ帝国のコンスタンティノス大帝は都をローマからビザンティオンに移し、ここを「新ローマ」と名付け、帝国の東半分
の首都とした。後世の歴史家達はこの東のローマ帝国を「ビザンツ帝国」と呼ぶ様になった。コンスタンティノープルは、最盛期には長安や
バグダードと並んで、世界最大の都市の一つであった。コンスタンティノープルはキリスト教の中心地として、シルクロードの終着駅として
、繁栄の極みに達した。繁栄している都は羨望の眼差しで見られて、あらゆる方面から攻撃に逢い1204年第4回十字軍の攻撃で陥落する。
ビサンツ側は60年後に奪還するが、帝国の弱体は否めず、1453年オスマン朝スルタン、メフメット2世の軍勢に破れ、この町を首都としたオスマン朝は
繁栄を取り戻し、再び世界最大の都市の一つになった、この町の繁栄ぶりはトプカプ宮殿を見るだけでわかるだろう?。
だがオスマン朝も第1次大戦とともに登場したムスタファ・ケマルを中心とする大国民会議は
1923年アンカラを首都とする憲法改正案を採択、イスタンブールが首都である時代は終焉する。
★イスタンブール★
「ヨーロッパとアジアの架け橋」この東西文明の接点イスタンブールはボスフォラス海峡を挟んでヨーロッパとアジアに跨る町。
東西文明の中継地点として歴史上、常に重要な都市となってきた。ビサンチン帝国やオスマントルコ帝国が首都を置き、
夫々の時代で爛熟した文明が、世界遺産に登録された歴史地区を中心に残されている町。
ヌールオマニエル門とグランド・バザール
★グランド・バザール(Kapali Çarsi カパル・チャルシュ)★
カパル・チャルシュとはトルコ語で屋根付き市場の意味だが、この屋内市場は中東最大とも言われる大規模なものです。
出入り口は20余りあり、南はベヤズット、西はイスタンブール大学、北はエミノニュ、東はスルタン・アフメットと広大な
地域に跨っている。 一度入ったらなかなか同じ出入り口からは出られないという程で深入りせずに充分注意して戻っ
て来てほしいと添乗員に言われました。 一軒一軒の店は間口、奥行き、共に狭く、それだけ無数の店がある。
その数は4400軒とも云われている程、でも同じ品物はある程度、同じ場所に
かたまっているので、買い物したい物が決まっていれば比較的買い物は楽です。
もともとこの市場はIçi Bedesdtenイチ・ベデステン、
Sandal Bedesteniサンダル・ベデステン、という2つの市場が中心
になっている。古くから前者は金、銀、宝石、を扱う貴金属店が集まっており、その伝統は今でも続いている、
又後者は絹等の商品を扱っていた。その後バザールは増殖を続けて現在の様な巨大市場へ成長して行った。
グランド・バザール クズ塔(乙女の塔)
★クズ塔(Kiz Kulesi)★
ボスポラス海峡の入り口のアジア側にある小島に建つ城塞。近年迄灯台として使われていたが廃屋だった。
アジア側からヨーロッパ側、ヨーロッパ側からアジア側を眺めても景色は良い眺め、この景色を一度に眺められるのがクズ塔。
イスタンブール市が観光のため検討中だったが、そんな願いを叶えてくれるレストランが、このクズ塔にオープン、
長い間灯台としての役目を果たしていたが、その灯台の1,2階がレストラン、3〜5階が土産物店が
並ぶニュースポットに変身、最上階に上がればアジア、ヨーロッパ側の両方が一望出来るようになった。
★Ankara Ekspresi(アンカラ・エクスプレス)★
イスタンブール、ハイダルパシャ駅〜アンカラ駅間の特急寝台車です。
トルコ国鉄の線路の幅は標準軌、日本の狭軌に比べて広い分、
大きな客車が造れて、それは安定した走行や快適な乗り心地につながって揺れが少なく、
快適に眠る事が出来ます。車両はコンパートメント専用の寝台車で廊下も広く室内も案外
広く造られている。翌朝早く起床して窓外を眺め、明るくなってくると
アナトリアの大地を走っている事が実感出来る。